新五千円札の顔: 津田梅子さんのスゴイところを分かりやすく解説

ニュース/レビュー

2024年に紙幣の顔が変わります。

今回の千円札、五千円札、一万円札の全てが新しくなります。

千円札と一万円札は日頃から目にしてる人も多いので馴染み深いですが、五千円札は覚えていますか?

現在(2019年)の五千円札の顔は樋口一葉(ひぐちいちよう)です。

2024年には樋口一葉から津田梅子(つだうめこ)へと変わります。

「津田梅子?聞いた事ないな」と思ってる人が大勢でしょう。

そんな津田梅子がどのような人生を送り、紙幣にのるくらい活躍、貢献してきたのかをご紹介します。

津田梅子の生い立ち

津田 梅子(出典:Wikipedia Commons, パブリック・ドメイン, Link )


簡単に年表にまとめてみました。

1864年     東京にて生まれる。
1871年     アメリカへ留学(当時最年少の6歳)
1882年     アメリカより帰国。
1883~1889年 まで華族女学校で英語教師として勤める。
1889年     再度アメリカへ留学。
1892年     帰国し、再び華族女子学校で勤める。
1900年     女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立。初代塾長
1919年     塾長を辞任。
1929年     64歳で死去。

さて、これだけを見てみると「あれ?大したことなくない?」「特に大きい功績とかあるの?」と思われるかもしれませんね。

現代の日本では普通かもしれませんが、当時の日本は男性社会中心。

女性が学校に通う事や、一般の女性が教育を受ける機会なんて少なかった時代です。

その先駆けとなったのが津田梅子なのです。

では、もう少し梅子を知ってもらうとしましょう。

津田梅子は何が凄かったの?

津田塾大学(出典:松波庄九郎/写真AC)


最初に留学をしたのが6歳の頃。そこでアメリカの女子学校卒業まで過ごしています。6歳の時の留学ですので、帰国した時には日本語の方が喋れず苦労したという事。

また、当時の日本は「男尊女卑」の考えが根強くアメリカとの差に驚いたとの事です。

帰国した後にある夜会での事。留学した時に乗っていた使節団の一員の伊藤博文と再会した事がきっかけで伊藤の英語指導や通訳の為に雇われ伊藤家に滞在するようになります。

また、伊藤の紹介で華族女子〔華族(かぞく)とは昭和22年まで存在した近代日本の貴族階級〕を対象とした学校の英語教師も行うようになりました。この華族女子学校での経験が梅子の人生をまた一つ変えました。女子教育に力を入れる為に再び留学。留学したのはもちろん勉強の為でもあったのですが、「自由な風土の元で教育をしたい。」という思いが強かったようです。

再度帰国した後、華族女子学校で教員をしながら、私塾を作ろうと準備を始めます。
そして1900年東京に「女子英学塾」を開塾する事になります。この女子英学塾は華族だけでなく、一般の人も入塾出来る様になり男女平等の先駆けとも言える事をやりとげました。

1929年梅子は死去しますが、その後女子英学塾は1933年に津田塾大学と名称を変更し現在に至ります。
現在では当たり前に言われる男女平等。先程も書いた通り、当時は男尊女卑が当たり前な時代です。その時代にも関わらず女性の教育の重要性を取り入れた津田梅子は現代の功労者と言って過言ではないですね。

ちょっとしたお札の雑学

お札のイメージ(出典:by geralt / Pixabay)


さて、そんな津田梅子が五千円札の新しい顔になります。その前は樋口一葉と女性の顔が連続で描かれていますが、お札は今まで何枚も出てるのに、女性が描かれてるのが少ないのは何故でしょう?
それは印刷技術にも問題がありました。

男性の顔の場合、女性と比べシワが多かったり、髭を生やしてるのが描かれています。このようにシワや髭を描く事で偽札を作れない(作るのが難しい)ようにする為と言われていました。女性の場合、男性よりもシワがなく髭もないので偽造しやすいとされてたので、それが女性の顔が描かれなかった理由でした。

現在では偽造防止の印刷技術が向上したので、女性の顔でも問題なく印刷されますし、男女平等の先駆者ですので今の時代にあっている津田梅子が選ばれた理由の一つかもしれませんね。

まとめ

津田梅子がどんな人物だったのかおわかりいただけたかと思います。

2024年から新しい紙幣になる津田梅子を知っておけば、ちょっとした雑学として披露出来るかもしれませんよ?

 




しかkす

(本の画像をクリック/タップするとAmazonの商品ページへジャンプするようにリンクを貼っておきました)

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。