今こそ振り返る日本人とウイルスの戦いの歴史-北里柴三郎の貢献【虎ノ門ニュース】

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先週の虎ノ門ニュースで火曜特集「今こそ振り返る日本人と疫病(えきびょう;悪性の伝染病のこと)の歴史」が放送され、その中で北里柴三郎 大先生の素晴らしい功績が紹介されましたので、ここでまとめておきます。

日本の歴史を変えた3つ疫病からです。

天然痘; 疱瘡(はんそう); 痘そう

人類を何千年もの間 脅かしてきた疫病(えきびょう;悪性の伝染病)ですが、人類の努力によってワクチンが初めて開発され、1977年に地球上から根絶に成功したウイルスによる感染症

日本の歴史を変えた疫病 ① 天然痘
🔵 奈良時代(737年)に遣唐使などが大陸から持ち込んだ説も
🔵 当時政権を握っていた藤原四兄弟全員が病死 政治機能が麻痺した
🔵 江戸時代には見目定め(みめさだめ)の病として忌み嫌われた。
– 当時の日本人は3分の1がアバタであったと言われる〔百田さんより〕
🔵 1866年 孝明天皇がこの病にかかり亡くなった
🔵 祈祷にすがるしかなく 全国に疱瘡神社が残っている
🔵 種痘*ワクチンにより1956年(昭和31年)になって国内で感染者がいなくなった
(参考:WEB歴史街道2017年12月28日公開・国立感染症HP)

※ 天然痘ワクチンは「種痘(しゅとう)」と呼ばれた。

⭐️うんちく(蘊蓄)コーナー
・ヨーロッパは天然痘を日本より早く撲滅させた。
・ジェンナーが牛から抗体をとった。
・幕末の頃に日本に入ったヨーロッパ人は天然痘を恐れた。
・吉原にいた女性は天然痘にかからなかった人が多かったのでは?→ だから顔がきれい〔百田さんより〕
・孝明天皇は天然痘で亡くなったという話もあるし暗殺説も。
・奈良時代に「奈良の大仏」を作ったのも天然痘の撲滅を願って建造されたとも言われています。
・奈良時代、天然痘の災い(厄災)をはらうため12回も元号を改めるという災異改元がおこなわれた。
夏目漱石は4~5歳の頃、種痘(天然痘の予防接種)を受けたことから、却って天然痘(疱瘡)を引き起こしてしまい、鼻の頭に痘痕が残ってしまった。イギリス留学時もそのことを気にしていた。〔サライ.jp より〕
・夏目漱石は天然痘で亡くなった(一平ちゃんより)。胃潰瘍に伴う腹部体内出血が死因と言われている(胃がんであったとも)〔現在.com より〕
・種痘のワクチンをした時代(昭和30年代)もあるが、世界的な根絶を宣言したのは昭和54年(1979年)なので日本も警戒して1976年まで種痘を続けた。右腕の種痘の跡(丸いへこみ)は昭和30年代生まれの人まで(山口百恵やキャンディーズの腕に種痘の跡がある)。
・WHOが種痘絶滅宣言をし(昭和54年)、アメリカとロシアが持っている天然痘の最後の株を焼却するかで揉めた(今でもその2ヵ国だけが持っている)。軍事転用の危険性も含めてどうなのか、今回の新型コロナも生物兵器云々という話もありまして、ウイルス研究の悩ましい問題です。
・種痘は牛に天然痘を入れて抗体を作り、その牛の血を取って人に入れれば治るのではという仮説をジェンナーが立て、自分の息子で試した・・・というのはウソで本当は隣の貧乏人の子にお金をあげて試した。〔百田さんより〕
日本で最初に種痘をやったのは佐賀の鍋島藩の鍋島直正。彼は17歳で家督を継いで、黒船が来る前の年に日本で初めて精錬所を作り、筆などいろいろなものを作り、自分の跡取りの息子に種痘をした。(ちなみにDHCの会長も佐賀の人)〔百田さんより〕
・天然痘は江戸時代に28回流行した。〔ニコ生視聴者より〕

天然痘に関する世界のエピソード
・世界最古の患者はエジプトのラムセス2世(92人子供作った)。紀元前1157年のミイラに天然痘の跡がある。モーゼと同じ時期に育った人。
・1555年インカ人がほとんど滅亡。天然痘だけでなく、スペイン人はインカ人を奴隷として扱い、多くの人がなくなりさらに天然痘(抗体がないためほとんどの人がかかったと言われる)で、一説によると99%が死んだという話も。
・2002年米国ブッシュ大統領が声明:イラクの天然痘バイオテロに備えた希望者への種痘実施
(参考:モダンメディア 55巻11号2009「人類と感染症との闘い」283)

新型コロナと天然痘を含む3代病との比較
新型コロナウイルス 天然痘 はしか(麻しん) コレラ
致死率 2.3% 30%(平均で20〜50%) 15% 1〜4%
潜伏期間 1〜12.5日 7〜16日 10〜12日 数時間〜5日内
患者1人から感染する人数 1.4〜2.5人 (近距離で80%以上が発症) (空気感染し免疫がない人の90%が感染) (人から人への感染の危険性は低い)
状態 パンデミック
(2020年初頭)
撲滅 2019年から増加中 (約1000人/年) 日本では毎年数人が感染
遺伝形態
ゲノムの長さ
RNAウイルス
30k bases
DNAウイルス
186kbp
RNAウイルス
15.9k bases
コレラ菌
DNA 4.0Mbp
症状 発熱や咳 顔面や頭部
全身に発疹
発熱と全身に発疹 肺炎・脳炎などの合併症を引き起こす 激しい下痢による高度の脱水症状
特記 高齢・併存疾患・がん患者は重症化するリスクが高い 失明や脳炎
死産などの後遺症
20~40%に中枢神経系の後遺症(精神発達遅滞, 痙攣, 行動異常, 神経聾, 片麻痺, 対麻痺)を残す 脱水症状の治療が成功すれば後遺症がなく完治
参考資料
🔵 厚生労働省「新型コロナウイルスについて
🔵 国立感染症(天然痘(痘そう)とは麻疹とはコレラとは
🔵 東京感染症情報センター(コレラの発生状況(2009年)
🔵 コレラ(平成 22 年度食品安全確保総合調査)

はしか(麻疹, ましん)

日本の歴史を変えた疫病 ② はしか
🔵 平安時代(998年)日本での初めての流行
🔵 藤原道長の六女がこの病気で死去し 後継の天皇1人しか産めず それが元で藤原氏の摂関政治が終焉を迎えた。
🔵 江戸時代に13回の流行が記録され 1862年には江戸だけで約24万人が死亡。
🔵 徳川綱吉も感染し64歳で死亡。
🔵 2007年関東の20代を中心に流行し 大学閉鎖などの措置がとられた。
(参考:モダンメディア 56巻7号2010「人類と感染症との闘い」159)

⭐️うんちく(蘊蓄)コーナー
・一度かかると終生免疫ができるので、子供の時にかかっとくとおたふく風邪も麻疹も免疫ができる。おたふく風邪大人の男がかかると精子がなくなると言われている。
・「はしかが軽ければ疱瘡も軽いと」言われた。〔一平ちゃんより〕
・15%の致死率と言われるが、子供がはしかにかかっても寝ていれば治ってしまう。これは日本が大流行を何回も抗体ができていることではないか?〔上島嘉郎さんより〕
・国立感染症研究所によると2008年までは土着型(日本にあった)のはしかのウイルスであったが、外来のものが2009年から増えていて、2011年から流行したはしかの株はヨーロッパや東南アジアから来た株による
・感染経路:空気感染、飛沫感染、接触感染で、ヒトからヒトへ伝播する。

はしかに関する世界のエピソード
・1824年ハワイ国王カメハメハ2世と王妃がイギリスで感染し死去。
・2人の遺体を載せた英国艦がハワイへの航行の途中にあるブラジルに立ち寄った際 コーヒー豆が持ち込まれ現在の「コナ・コーヒー」が生まれた。


コレラ

日本の歴史を変えた疫病 ③ コレラ
🔵 1822年に日本で初めての発生。
🔵 歌川広重 徳川家定はこの疾病に感染し死亡。
🔵 江戸幕府は箱根の関所で旅行者の往来を制限し感染抑制に成功。
🔵 明治になり関所を廃止すると 2〜3年ごとに数万人の患者が出た
🔵 1890年 横浜で同疫病が流行した際 寄港していたエルトゥールル号の乗組員に発症 乗組員約600名を上陸させ船内消毒。
(参考:http://www.eiken.co.jp, http://www.wakayama-edc.big-u.jp/kenkyukiyo/H16/H16_5.pdf

⭐️うんちく(蘊蓄)コーナー
・江戸時代によく死ぬのでコロリと呼ばれた。
・1822年 九州 西南地方から登場して来ているので大陸経由だろうことが言える。この時静岡くらいまでで感染は止まっているので、ころりも箱根の山は越せなかったというけど、この後幕末1858年に第2次の流行があって、北海道函館まで感染者が出て、江戸の町にも大流行した。斎藤月岑(げっしん)の武功(ぶこう)年表によりますとと江戸100万人のうち4人に1人が死んだ記述がある。寺も火葬から埋葬まで全く間に合わなかったとのこと。4人に1人は実際はそんなになかったかもしれないが、それくらいに感じられるほど多かった。
・囲碁の天才・本因坊秀策(ほんいんぼうしゅうさく)は江戸のコレラで弟子がみんなかかっても自分はかからなかったので弟子たちを寝ずに看病し、最後に罹患し彼だけが死んだ。
・致死率は約7割で、死者が増え過ぎて埋葬する人手が足りなくなることもあった。1347年に発生して17世紀まで続いた第2次パンデミックでは、当時の世界人口の4分の1に当たる約1億人が死亡したとされる。

コレラに関する世界のエピソード
・初めてヒトに感染した地域はガンジス川下流。
・19世紀から世界に広まった背景は英国のインド支配と関係が深いと考えられる。
・作曲家チャイコフスキーコレラ感染後に肺気腫で死亡とあるが、諸説あって実はホモでそれが世間に暴露される直前に自殺したとも言われている。〔百田さんより〕
(参考:http://www.eiken.co.jp

次は疫病と戦った日本人について3人の偉人をご紹介します。

北里柴三郎(抗体とペスト菌の発見)

新しい1000円札の顔になることも決まっているご存知の北里柴三郎 大先生、日本細菌学の父と呼ばれる方です。
1889年、破傷風菌の純粋培養に成功、翌年毒素を中和する世界で初めて抗体を発見(当時は抗毒素と呼んだ)、血清療法を確立。

北里柴三郎の功績
🔵 日本細菌学の父といわれる
🔵 1889年 破傷風菌の純粋培養に成功 翌年毒素を中和する抗体(抗毒素)を発見し血清療法を確立
🔵 1890年 第1回ノーベル生理学医学賞の候補に挙がったが共同研究者のベーリングだけが受賞
🔵 1894年 ペストが蔓延していた香港で病原菌のペスト菌を発見(世界では別人が発見したことになっている)

1890年ノーベル医学賞の候補だったが、受賞したのは共同研究者のベーリング。

上島嘉郎のコメント:

共同研究と言いますが実際はほとんど北里がやったそうです。二人ともコッホの弟子で、北里の方が先輩。ベーリングはジフテリアを研究、ノーベル賞の論文は二人の共著「動物におけるジフテリア及び破傷風の免疫成立について」というもので、1890年にドイツの医学雑誌に発表された。論文の核心の動物実験のデータは柴三郎の破傷風の実験成功のデータしか記載されていない。主な研究者は北里。

柴三郎がノーベル賞を受賞しなかった推測される理由(2つ)〔上島さんより〕
① 当時 ジフテリア はドイツで年間7万人の子供が死亡する致死率50%といわれるもので、ドイル国民は圧倒的にジフテリアの治療に関心があった。破傷風はヒト-ヒト感染がなくジフテリアはくしゃみなどから感染するのでより目立つ病気で注目度が全然違った。
② 有色人種に対する差別意識は拭いがたくあった。まだ日露戦争に勝つ前ですから日本人に対する侮りもあった。

⭐️うんちく(蘊蓄)コーナー

・ノーベル賞は長年 有色人種と女性に対する差別意識があった。〔百田さんより〕

・日露戦争の勝つ前で侮りもあったでしょうし、当時ドイツ皇帝のウイリアム2世は黄禍論(おうかろん;黄色人種脅威論)を唱えていて、日露戦争の時にもルーズベルトに「この戦争は黄色と白の人種間戦争だ」と訴えていた。ポーツマス条約の交渉の時でも、アメリカの門戸開放でも「日本は邪魔になるぞ」みたいなことをと言い出してる。つまり政治の側面から見たら、人種差別が当たり前だった時代柴三郎は自分の学問研究のみをもってそこに立ち向かっていったという凄さと同時に、ある意味学問の素晴らしさをちゃんと認める学者たちもいた。パスツールしかり、柴三郎を大変評価し、ヨーロッパの学者たちは少なからず彼を認めていたということもある。
だから本来は第1回ノーベル賞だったんですよ。

北里柴三郎は江戸時代生まれ-義務教育なし-どのように学んだか?

北里がすごいのは江戸時代の生まれで、義務教育を受けていない。熊本のオグニという里の庄屋の長男として生まれ、少年時代は武士になりたくて「熊本の城下に出て学びたい」と親に訴えるが、庄屋を継げと言われてしまう。

その後、熊本の医学校に入り軍人になって国を守るという思いがあったが、大阪の陸軍学校に行きたいというのを親が反対したので医学校で学んでるときにマンスフェルトというオランダ人医学者(日本医学の向上のために明治政府が招いたお雇い外国人)から勲等(くんとう)を得て、人の命を守る医師というのも国に尽くす道じゃないかということで、医学の道に入っていったのです。そして今の東大の医学部に入ってドイツへの留学という道が拓けてコッホの下で学ぶという流れになっていくわけです。でも侍になりたい、国に尽くすというのが北里柴三郎の根幹にあったのでしょう。〔上島さんより〕

北里柴三郎の「医道論」

明治20年(1880年)に北里が書いた「医道論」という本の中で、このように述べています。

医の真の目的大衆に健康を保たせ、国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目当てに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て 医道の真意を理解しなければいけない。」

北里柴三郎を支えた人たち

もう一点忘れられないのは柴三郎が世界的な細菌学者になったということで、ドイツ留学中も内務省からお金が出て彼は留学できてますが、日本政府も財政が厳しい中で資金が打ち切られるところに最終的には明治天皇から御貸金(おかしきん)が出たのです。1000円(当時巡査の月給が8円)が出て彼は研究を続けることができました。コッホも日本がお金を出さなければドイツ政府と掛け合って環境を整えようかとか努力してくれたり、彼を助けなきゃいけないと思った人が周りに多くいて、それは柴三郎が「努力の塊」のような人であったということもあるのかもしれません。

さらに研究を終えて日本に帰る時に、アメリカの大学からすごい高給で招かれます。40万円自由裁量で別に年額4万円別に出るとか、ケンブリッジ大は細菌学研究所を作るので所長として招きたいという話も、柴三郎は全部断って日本に戻るんです。祖国に尽くすっていうこと。〔上島さんより〕

慶応医学部の初代の学長ですね。国内に戻って福沢諭吉がこういう男は助けなきゃいけないってことで、伝染病研究所(東京大学・医科学研究所の前進)を作るわけです。努力が道を開くという人物だったけれども、努力のエネルギー源がどこにあったかというと祖国に尽くすということです。〔上島さんより〕

🔵 北里柴三郎は新千円札の肖像画に選ばれました。

日本人のノーベル賞級の研究が無視されてきた歴史

🔵 1889年 北里柴三郎による抗体の発見
(上記で説明しました)

🔵 1894年 北里柴三郎によるペスト菌の発見
・ペスト菌を最初に発見したのはフランスのアレクサンドル・イェルサンといわれていますがこれも嘘で、世界で初めて発見したのは北里柴三郎で、イェルサンはその翌週に発見していた。

🔵 1894年 高峰譲吉(たかみねじょうきち)によるタカジアスターゼ(消化酵素)を発見。タカジアスターゼのタカは本人の名前より。

🔵 1900年 高峰譲吉による世界で初めてのホルモン抽出成功。これが「アドレナリン」の発見です。

🔵 1910年 鈴木梅太郎によるオリザニン(ビタミンB1)の抽出成功世界で初めてのビタミンの発見です。

岩村 昇 (ネパールの赤ひげ)

岩村 昇 (いわむら のぼる)の経歴
・1927年生まれ(享年78) 愛媛県出身
・1945年、広島の高校に在学中の18歳の時原爆投下に遭い被曝。その際自らを犠牲にし患者の治療に当たる医師に感銘し医師を目指す。

岩村昇 医師の功績
🔵 35歳の時に派遣意思としてネパールのタンセンという辺境の村に派遣
🔵 18年間ネパールで感染症患者の治療にあたり「結核」から3万人の命を救った
🔵 2002年にネパールに岩村記念病院が設立される
🔵 結核で親を失った孤児12人を育て上げ, 2005年に妻と三人の孤児に看取られ永眠

すぐにワクチンが底をつくのでネパール政府に直談判されて、患者に来てもらうのではなく自分から僻地の村に循環診療に出かけていた方だそうです。平均睡眠時間3時間、1ヵ月家に戻れないこともあったそうです。薬を買うお金のない人には私財を投げ売って薬を購入して無料で診察していたことからネパールの赤ひげと呼ばれています。

肥沼信次 (ドイツの栄誉市民)

肥沼信次 (こいぬま のぶつぐ) の経歴
・1908年生まれ(享年37)東京都出身
・日本医科歯科大学を卒業後、東京帝国大学医学部で放射線治療の研究に没頭
・1937年29歳で当時放射線治療の研究が最も進んでいたドイツに留学

最初コッホの研究室に入り、その後ベルリン大学に移りました。

肥沼信次 医師の功績
🔵 1945年ドイツの街ヴリーツェンの伝染病治療センターで発疹チフスの治療に従事
🔵 自らの命と引き換えにドイツで恐怖の伝染病からのべ400人以上の命を救った
🔵 1946年37歳でチフスに感染し死去
🔵 ヴリーツェンの名誉市民に選ばれ現地の高校の教材として肥沼の精神が受け継がれている

ちなみに肥沼医師は他の医師は感染を恐れて去っていく中で積極的に患者を治療、薬が底をついた際には遠く離れた街まで出向いて薬をかき集めて、患者のために夜通し食料の買い付けにも奔走された方だそうです。ご自身がチフスに感染した後も他の患者さんに使ってくれと一度も薬を口にしなかったそうで、肥沼医師の功績がきっかけとなりドイツ・ヴリーツェン市とご出身の八王子市は現在友好交流協定を結んでいるそうです。〔一平ちゃんの読み上げより〕

この人がドイツにいた時はヒトラーの時代なので、ゲルマン民族が一番だということで、ドイツで教職を求めようとする場合にはナチスへの忠誠を求められたという中で肥沼さんは「自分は日本人だ」ということでナチスの人種差別的なものに関して暗黙に反意を示しているわけです。その強さがあったから多分こういう医療活動もできたのではないかと思います。〔上島さんより〕

⭐️ うんちく(蘊蓄)コーナー

百田「肥沼信次は立派な人やね、野口英世と入れ替えよう。野口英世は大嘘つきやからね。もう金好き・女好きでしかも医学の功績ゼロやからね。梅毒スピロヘータの培養に成功したいうけど結局誰も成功してなかったからね。大ウソだね。黄熱病の病原菌を発見したいうて、当時の野口英世の使ってた顕微鏡では病原菌は見えない倍率。とにかくやっていることが全部ウソ。」

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引用:虎ノ門ニュース、2020年3月24日 1時間13分より今回の火曜特集がスタートします ↓


放送日から2週間だけYouTubeでご覧になれます。

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