北里柴三郎の業績をわかりやすく解説! 2つのノーベル賞を逃した理由とは?

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執筆日:2018年10月3日、最終更新日:2019年4月9日

4月9日に政府は20年ぶりに紙幣を刷新することを決め、北里柴三郎博士が千円札の顔に採用されました! 👏 👏 👏(パチパチパチ)

博士は「近代日本医学の父」と呼ばれますが、一般的にはその業績はあまり知られておりません。

今回はその業績を分かりやすく解説し、なぜ第1回目のノーベル賞を逃すことになったのかを歴史から説明していきます。

そして、北里博士の名誉復活は実は外国人研究者によってなされたことなども合わせてお伝えしていきます。

北里柴三郎博士の代表的な成果

北里柴三郎(1853-1931)〔出典:Wikimedia Commons, パブリック・ドメイン, Link

 北里柴三郎 – 代表的な業績 
❶ 破傷風菌を増やすことに初めて成功(嫌気性菌の培養に世界で初めて成功
❷ ジフテリアや破傷風の治療として血清療法を確立(世界初の血清療法の開発
❸ ペスト菌を発見し、患者隔離・上下水道整備など予防法を確立、猫を一家に一匹買うことを推奨(世界で約1億人を死に追いやったペスト菌を世界で初めて発見。しかしその功績は歴史から消された

皆さんは北里柴三郎博士の業績を目にすることはあまりないと思いますが、代表的な業績は上げただけでも3つ以上あります。

しかも1つ1つが素晴らしい業績で、どれもが世界初です。

これが、ノーベル賞を2つ以上取っても不思議ではないと言われるゆえんです。

他にも自費で研究所を作り、インフルエンザ、赤痢、狂犬病などのワクチン開発したり、慶應大学医学部を作って無給で発展に尽くしたりしました。

北里柴三郎博士は武士になりたかったんですが(1853年、江戸時代生まれ)、東大医学部(1875年、東京医学校)に入りました。

教授の論文が気に食わなかったようで文句を言っては留年し、やっと8年後に卒業しました。

大学で「医学の目指すものは予防である」という信念を抱き、ドイツのコッホ先生のところへ留学しました。

破傷風菌の培養に成功

寒天培地(イメージ写真、出典:nadya_ilによるPixabayからの画像 )


北里先生は下宿には寝に帰るだけで研究にひたすら打ち込むという生活でした。
どうしても増やせなかった破傷風菌をなんとか増やそうとあれこれ試行錯誤するのですが、なかなかうまくいきません。

あるときなんとなく空を見ていたら雲がプカプカあって、なんか注射針でつっつきたいなーと思ったそうです。
それで思いついたのです!

空気の嫌いな(嫌気性菌)菌を寒天培地の中に針で突っついて押し込めば増えるだろうと。
北里は空の雲からインスピレーションをゲットしてしまう人でした。
1889年のことで翌年にはまたすごい発見をしてしまいました。

抗体(抗毒素)の発見

北里先生は、破傷風は菌が出す毒で起こることを発見しました。
さらにほんの少しの毒素を動物に注射し、だんだん量を増やして行くと動物は体の中に抗体を作り出し、やがて致死量でも大丈夫になります。
その動物から取った血清を他の動物に注射しても破傷風にかからなくなりました。(血清療法)
一緒に研究していた同僚のベーリングは、1901年にジフテリアの血清療法で第一回のノーベル賞受賞者となりました。

人類の夢:ペスト菌の発見

ペスト菌の走査型電子顕微鏡写真(×20,000)〔出典:Wikimedia Commons, パブリック・ドメイン, Link


北里先生は1894年、香港にペストが流行しているのをなんとかしようということで内務省から派遣され、ペスト菌を発見(1894年6月14日)し、イギリスの著名な医学誌「The Lancet(ザ・ランセット)」8月11日号にて速報が報告され、さらに8月25日号に北里自身の論文を掲載しました。

北里先生の速報の最初のページが拝見できます -「The Lancet」1894年8月11日号

🔵 “THE BACILLUS OF BUBONIC PLAGUE” By PROFESSOR S. KITASATO
> The Lancet, Volume 144, Issue 3704, 25 August 1894, Pages 428-430

PDF書類(The Lancet, 1894年)


続いてフランス人のエルサン(A. Yersin)によるペスト菌の発見

北里先生がペスト菌を発見(1894年6月14日)した翌週に、同じく香港に滞在していたフランス人のアレクサンドル・エルサン(A. Yersin)もペスト菌を別に発見しパスツール研究所年報に掲載されました。
北里先生がペストの分株菌をドイツのコッホ研究所にも送っておりましたので、それとエルサンの菌は同一だと認められました。1897年ベニスで開催された万国衛生会議で二人が共に発見者だと認められました。

しかしこの北里先生の功績は歴史から消されてしまいます。

ノーベル賞と日本人差別&国内の冷遇

汚れた日本国旗(出典イメージ:EtereutiによるPixabayからの画像)


しかし1899年、ペストが日本に初めて上陸した時に改めて菌を調べた北里先生は、自ら主張した性質の誤りを認めることになってしまいます。それだけでなく、万国衛生会議で発見者として認められた事実さえも、主張しなくなってしまったのです。

北里先生が発見したのはペスト菌ではないと非難する論文が、科学的証拠も無しに次々と発表されました。森鵬外もその一人でした。北里先生が日本で叩かれていた1901年、はじめてのノーベル賞が発表されました(第1回目)。

欧米では国を挙げて獲得運動を頑張り、ベーリングが「ジフテリア血清療法の開発」で第一回のノーベル医学生理学賞を獲得しました。血清療法は北里先生の破傷風研究の二番煎じでした。しかしベーリングにはドイツの国を挙げての応援がありましたが、北里先生は国を挙げて足を引っ張られていたのもあり、欧米からの日本人差別もあった可能性もあり、その当時一人しか受賞できないノーベル賞を北里先生が受賞することはありませんでした。

北里柴三郎の栄誉復活はカリフォルニア研究者によってなされた

米国国旗(出典イメージ:tookapicによるPixabayからの画像)


1967年ペスト菌が属する細菌群が再分類されることになりました。
当初ルイ・パスツールが発見したので Pasteurella pestis という学名でしたが、2番目の発見者エルサンにちなんで Yersinia pestis となり、北里先生の名はありませんでした。

カリフォルニアの二人の研究者が、北里先生の発見の真実は明らかにされるべきだと膨大な論文や記録、当時の研究環境など精査し、徹底的に分析しました。そして「北里柴三郎は、確実に香港でペスト菌を研究して、論文の大部分は的確に特徴を記載してあるので彼にもその発見の栄誉を与えるに十分」という結論に達しました。この総括的論文は1976年、アメリカ微生物学会の機関誌に発表され、北里先生の発見の事実をめぐる論争に終止符が打たれました。

カリフォルニアの二人の研究者による総括的論文(1976年)が無料でご覧になれます

🔵 ”Diagnosis of Plague – an Analysis ofthe Yersin-Kitasato Controversy” BACTERIOLOGICAL REVIEWS, SEPT. 1976

PDF書類(1976年)全19ページ


しかし北里柴三郎の功績が世界の表舞台に出ることはまだない

話を戻しますが、日本人がノーベル賞を取れるようになったのはつい最近の事になってからのことです。
しかし未だに北里先生の功績は教科書に載るようなことはあまりありませんし、ペスト菌の学名( Yersinia pestis )も修正されていません。

北里先生は香港でも日本でもたくさんの人々を疫病を予防することによってお救いになりました。今もなお破傷風ワクチンなど広く使われ、多く人々が救われ続けています。

慶応義塾大学の医学部創設にも北里先生はご尽力なされましたが、その敷地に北里先生の胸像はありますでしょうか?
世界だけでなく国内にも日本人同士での差別もあります。研究社会においても。
未だに日本は差別の中に置かれていることがわかります。

ネットの力によっていつかこういった差別がなくなることを祈ります。
そしてこのサイトでも差別のない公平な社会となるように尽力して参ります!

[2019年4月9日に追記 → ] こういった状況の中で2024年から北里先生がお札の顔に採用されたのは、真実を広める絶好の機会です。

北里柴三郎先生の記事も機会があれば増やしていきたいと思います。
また、この情報を拡散していただければ幸いです。

Seigo

参考資料
北里柴三郎がノーベル賞をとれなかった理由 彼の業績では無理なの?(ひすとりびあ)
北里柴三郎と森鴎外とノーベル賞と(www.iph.pref.hokkaido.jp)
真を求めて 皆様とともに幸せになりたい(hanachan28.exblog.jp)
5分で北里柴三郎について!なぜノーベル賞をもらえなかった? (れきし上の人物.com)

北里柴三郎先生の関連書籍

 


 

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