ウォズニアックがApple-1を設計した頃の時代背景:日本では宇宙戦艦ヤマトがテレビ放映され, ユーミンが流行っていた《1975年3月》
コンピュータの歴史シリーズでは、スティーブ・ウォズニアックを中心に1975年前後を紹介させていただいておりますが、そのころの日本のエンターテイメントはどうなっていたか一緒にちょっと脱線してチェックしてみたいと思います。
この記事のもくじ
インテル 8080プロセッサができた頃、日本はフィンガー5が「学園天国」を歌い、アニメはアルプスの少女ハイジが流行っていた
コンピュータの動き |
日本のアニメ |
日本の歌謡曲 |
1974年4月 インテル 8080(8ビットマイクロプロセッサ)発表 | 1974年1月6日〜12月29日 アルプスの少女ハイジ(全52話) | 1974年3月5日 フィンガー5「学園天国」 |
1975年1月 Altair8800 発表 | 1974年10月6日 -1975年3月30日 宇宙戦艦ヤマト(全39話) | 『卒業写真』,『いちご白書』,『あの日にかえりたい』、荒井由実(作詞・作曲) |
1975年3月5日 ホームブリュー・コンピュータ・クラブ第1回、ウォズApple-1設計 | 1974年9月8日 – 1975年9月28日 グレートマジンガー(全56話) | 1975年12月5日 キャンディーズ「ハートのエースが出てこない」 |
1976年4月11日 Apple-1発売, 666.66ドル | 1975年4月4日〜 勇者ライディーン(全50話) | 1976年3月1日-キャンディーズ「春一番」 |
1977年6月10日 Apple II 発売 | 1977年8月6日 映画「宇宙戦艦ヤマト」 | 1977.10.01-山口百恵「秋桜(こすもす)」 |
1974年には日本のアニメは『アルプスの少女ハイジ』がテレビ(正月から始まり同じ年の12月に完結)で人気でした。ミュージックは1974年3月5日にフィンガー5が「学園天国」をリリースして人気を博していました。
そんな中、1974年4月ついにインテルが8080プロセッサを開発して、マイクロコンピュータが作成可能となりました。しかしそれに気づいたのはMITS社のエド・ロバーツくらいであり、スティーブ・ウォズニアックはまだそのことに気づいていませんた。
そしてホームブリュー・コンピュータ・クラブでMITS社の発売したAltair 8800の存在をウォズが知り、その日のうちの数時間でApple-1の設計を完了させてしまったのが1975年3月5日でした。ではそのころの日本はというとウィキペディアでいろいろ興味深いことが分かったのでそれを列挙してみましょう。
『宇宙戦艦ヤマト』は『アルプスの少女ハイジ』に視聴率をとられ早期に終了
日本では『宇宙戦艦ヤマト』が「日本テレビ」で1974年10月6日から最初の放送がされておりましたが、裏番組(フジテレビ)だった『アルプスの少女ハイジ』や『フランダースの犬』に視聴率をとられ、宇宙戦艦ヤマトは当初全52話で企画されたにもかかわらず39話に短縮されてしまいました。松本零士さん初のアニメ化があまり上手くいかず、この頃はかなり心配されたことでしょう。(その後 再放送で宇宙戦艦ヤマトの人気が出て映画化につながります。)
以下の年表は1975年3月の早期の最終回を迎えてしまった宇宙戦艦ヤマトの放送スケジュールです。
話数 | 放送日 | サブタイトル | 脚本 | 絵コンテ | 作画監督 | 人類滅亡までの日数 |
---|---|---|---|---|---|---|
第1話 | 1974年 10月6日 |
SOS地球!!甦れ宇宙戦艦ヤマト | 藤川桂介 | 松本零士, 石黒昇 |
芦田豊雄 | – |
第22話 | 1975年 3月2日 |
決戦!!七色星団の攻防戦!! | 藤川桂介 | 松本零士, 石黒昇 |
白土武 | 214日 |
第23話 | 3月9日 | 遂に来た!!マゼラン星雲波高し!! | 山本暎一 | 安彦良和 | 芦田豊雄, 小川隆雄 (作監補佐) |
164日 |
第24話 | 3月16日 | 死闘!!神よガミラスのために泣け!! | 小泉謙三 | 161日 | ||
第25話 | 3月23日 | イスカンダル!!滅びゆくか愛の星よ!! | 岡迫亘弘 | 131日 | ||
第26話 (最終話) |
3月30日 | 地球よ!!ヤマトは帰ってきた!! | 藤川桂介 | 松本零士, 石黒昇 |
– | – |
年表(宇宙戦艦ヤマト、ウィキペディア)
1975年はユーミン(当時 荒井由実)作詞/作曲した歌が2~3曲 流行っていた
1975年に流行っていた曲に「あの日にかえりたい」やバンバンへの提供曲「『いちご白書』をもう一度」そしてハイ・ファイ・セットへの提供曲「卒業写真」が流行っていましたが、それはすべてユーミンが手がけたものでした。ユーミンについてウィキペディアで驚くのは、「呉田軽穂」というペンネームでいろんなアーティストに詩や曲の提供をたくさんしていることです。特に松田聖子さんには13曲も提供しており『赤いスイートピー』や『渚のバルコニー』はユーミンが作曲したものでした。おそるべし才能です。
以下は YouTube でみつけた1975年前後のユーミンが手がけた曲です。
20余年アメリカで遺伝子治療&幹細胞の研究者をやってきました。
特に遺伝病の間違った遺伝子をピンポイントで修復し、元に戻す技術開発です。
理学博士(Ph.D. )
アメリカ生活で学んだアンチエイジングなど健康に関する知識をシェアしたいと思います。
巷の情報もご紹介、時にはブッた斬ったりしてしまうかもしれません。
またポイントなどの節約術や生活に便利なガジェット(スマホやアプリの紹介)も記事にしますので参考になれば嬉しいです。
皆さん、ご一緒に「究極のヘルシーライフ」を楽しみましょう♪
《もっとくわしいプロフィールをみる》
この記事へのコメントはありません。