ウォズニアックのApple II 用BASICはアタリ社のブロック崩しゲームが移植できる言語として成熟した《1976年夏》
(写真:Apple II のロジックボード, by Seigo)
Apple II の設計がほぼ完成した1976年8月、米国の東海岸(ウォズの住んでいるカリフォルニアは西海岸)でコンピューター・フェスティバルが行われた(Personal Computing Festival, 1976年8月28日)。
ウォズとスティーブ・ジョブスはApple-1とプロトタイプのApple II を持ってそのフェスティバルが行われるニュージャージー州へ飛行機で向かった。
当時の写真が残っているのでご覧下さい。
この記事のもくじ
Personal Computing Festival, 1976年8月28日, アトランティック・シティーにて
Apple I の良さを熱く語るスティーブ・ジョブス(当時21歳)
(出展:All About Steve Jobs.com )
Apple I の売り込みをしたのはスティーブ・ジョブスとダン・コトケだった。
たった1枚のカラー写真。(これはフェスティバル会場ではなくて2階かもしれない。2階でウォズはApple II 用BASICのシークエンスをしていたと自著で言及している。)
ウォズのApple II 用BASICはゲームの移植によって成熟した
このフェスティバルで Apple-1の売り込みをしたのはスティーブ・ジョブスとダン・コトケで、ウォズは営業は不得意なので2人が頑張ってくれて助かったと言っています。
ウォズは会場の2階でBASICのシークエンスをしていました。
カラーの写真はその場所の写真かも知れません。
フェスティバルの後、ウォズはアタリ社のブロック崩しゲーム(英語でブレイクアウトという)Apple II へ移植することに成功しました。
ラケットやレンガの色を自由自在に変え、スコア表示やその場所の変更もソフトレベルで簡単にできることをウォズ自身も驚いていました。
その時に、ラケットの位置を読み取る機能をBASICに組み込み、スピーカーも自由に鳴らせるようにし、さらにカラー表示もできるようにしました。(アーケードゲームでさえ当時は白黒だった。)こうしてウォズのBASICはゲームの移植のできる言語として成熟していきました。
この「遊び」がビル・ゲイツの書いたBASICとは決定的に路線の異なる言語となっていきました。
ウォズはアタリ社のブロック崩しより格段上のレベルまでゲームの質を上げていました。
ハードウェアでこのような変更をすると10年もの時間がかかるのに、ソフトウェアでこれらの変化をプログラミングしてしまえばずっと速いスピードでゲーム作りができることに気づき、ソフトウェア主体のゲーム作りはこれから革新的に進むことを予見していました。
Apple IIのブロック崩しに裏技を仕込んだ
いつもイタズラ好きのジョブスとウォズでしたが、ウォズが開発したブロック崩しにも裏技を仕込みました。
あとでその裏技が確認できるようにここに書き残しておきます。
CTRLキー + Zキー を同時に押すとゲームのモードが変わり、ラケットがぶれ続けますがボールを「必ず」打ち返すように改良(つまり失敗はなくなる 😉 )
Seigo参考書籍:アップルを創った怪物もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝【電子書籍】[ スティーブ・ウォズニアック ]、259〜263ページ
続く・・・↓- ビンテージ・コンピュータ
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